初めに
ニホンザルは、雪山という過酷な環境に適応した世界で最も北に生息するサルとして知られています。多くの霊長類が熱帯や温帯の暖かい地域に暮らす中で、ニホンザルは数か月も雪に覆われる地域で生き抜いています。これは、霊長類の中でも極めて特異な適応です。つまり、彼らの進化と知恵に満ちた生態を物語っているのです。
では、なぜニホンザルは過酷な雪山でも生き延びられるのでしょうか?本記事では、その進化的背景と行動の工夫に注目し、雪山に生きる“雪猿”の秘密を解き明かします。
なお、進化や生態だけでなく、各地で「神の使い」として信仰されてきた文化的側面にも関心があれば、ぜひ「神の使い?守り神?ニホンザルに伝わる“知られざる伝説”を巡る旅」をあわせてご覧ください。
ニホンザルの体の仕組み──雪山の寒さから身を守る工夫
密で厚い毛皮で体温を逃がさない
まず、ニホンザルは冬に向けて密で厚い毛皮を発達させます。それにより、体温を逃がさない構造に適応しています。ある調査によれば、冬の被毛の密度は夏の約1.5倍に達するそうです。また、毛の長さも約20〜30%増加します。さらに、極寒下でも皮膚温は20℃前後に保たれるという実験結果もあります。したがって、毛皮の保温効果は非常に高いといえます。
群れで体を寄せ合って寒さを和らげる
また、彼らは群れで体を寄せ合うことで寒さをしのぎます。こうすることで、互いの体温を共有できるのです。特に夜間や吹雪時には、この集団行動が生存率を高める大きな要因となっています。

雪山のニホンザルの行動──温泉という知恵
温泉入浴による体温保持とストレス軽減
冬の寒さに対し、ニホンザルは温泉に入ることで対応しています。これは単なる習慣ではありません。実際、体温保持やストレスの軽減といった生理的効果が科学的にも確認されています。たとえば、ある研究では、温泉に1日2〜3回、1回あたり平均15分間ほど浸かることが観察されています。

時間帯や順位による温泉利用の違い
また、特定の時間帯──とくに朝方や日没前──に温泉利用が集中する傾向もあります。これは、体温調整を効率的に行うための戦略と考えられています。特に高順位の個体ほど長時間温泉を利用し、低順位の個体はその周囲で時折入浴するなど、群れ内の社会関係と行動が密接に関わっている点も注目されます。
雪山の食生活の多様性──ニホンザルは冬にどう食べるか
木の皮や昆虫、雪下の植物を活用
冬は食料が乏しくなりますが、ニホンザルは多様な食性を駆使して生き延びています。たとえば、木の皮や落ち葉の下の昆虫、雪に埋もれた植物の芽などを探し出します。つまり、限られた資源を無駄なく利用しているのです。

冬の食生活における魚の摂取
さらに近年では、川で魚を捕る行動も観察されています。ある研究によると、冬の糞サンプルの20%から淡水魚のDNAが検出されました。したがって、水生動物を食物に取り入れている実態が明らかになったのです。これは、寒さと飢えの両方に対する行動的適応の一例です。
社会性とヒエラルキー──ニホンザルの生存戦略の一部として
高順位と低順位の行動パターン
ニホンザルの社会には明確な順位制度(ヒエラルキー)があります。これが温泉の利用や食物の分配にも影響を及ぼしています。群れの中心部に位置する高順位個体が恩恵を受け、若年や老齢の個体は周縁で行動する傾向にあります。
弱い個体を守る協力的な行動
しかし、こうした構造の中でも、群れ全体で弱い個体を守る協力的な行動が見られるのも特徴です。
地域差という柔軟性──ニホンザルの環境適応
阿蘇地域の行動例と温暖地の食物選択
日本各地に生息するニホンザルですが、地域によって行動には違いがあります。たとえば、九州の阿蘇地域に生息するニホンザルには温泉利用の習性がありません。そのかわりに、寒さをしのぐために木の洞に身を隠す行動や、体を寄せ合って岩陰に座るなどの独自の行動が見られます。
また、温暖な地域では植物資源が比較的豊富です。したがって、食物の選択肢も異なります。これらの違いは、ニホンザルが環境に応じて行動を変える柔軟性を持つことを示しており、その適応力の高さを裏付けています。
科学的研究による裏付け──雪山での生存に貢献する温泉
温泉入浴によるストレスホルモンの低下
2018年、京都大学の研究チームは、長野県地獄谷野猿公苑で12頭のメス個体を対象に調査を行いました。その結果、温泉入浴によるストレスホルモンの低下が確認されました。つまり、温泉利用が寒冷地での生存に実際に貢献していることが明らかになったのです。
高順位個体の温泉利用時間の傾向
さらに、順位が高い個体ほど温泉を長く利用する傾向も記録されています。
比較から見える進化の特殊性──ニホンザルだけが選んだ雪山
他のマカク属との生息環境の違い
同じマカク属の仲間には、タイワンザルやアカゲザルなどがいます。これらは熱帯や温暖な地域に生息する種が多く、年間を通じて安定した気温と豊富な植生のもとで生活しています。そのため、寒冷地における体温保持や冬季の資源不足といった課題に直面することはありません。
寒冷地向けの遺伝的・生理的適応
一方で、ニホンザルは北海道から九州まで幅広く分布しています。その中でもとくに本州中部〜北部にかけては積雪・氷点下が日常となる地域にまで進出しています。これは霊長類の中でも極めて珍しい現象です。したがって、ニホンザルは非ヒト霊長類として世界最北の分布域を持つ動物でもあります。
また、被毛の密度変化や温泉入浴といった寒冷適応行動は、他の霊長類には見られないものです。これは単なる行動変化ではなく、遺伝的・生理的にも寒冷地向けに特化してきた進化の結果といえます。こうした点から、ニホンザルの進化はマカク属全体の中でも極めてユニークな枝分かれです。つまり、日本の風土と共に歩んできた固有の進化史を物語っています。
さらに、霊長類全体の進化の大きな流れを理解したい方は、「霊長類の進化の秘密:曲鼻亜目と直鼻亜目を徹底解説」で直鼻亜目の多様性やマカク属との比較も学べます。
現場観察が語るリアル──ニホンザルと雪山の生活
温泉内での位置取りと群れ内の立場
地獄谷野猿公苑の観察では、個体ごとに温泉の使い方が異なります。行動の差からは、社会構造や適応戦略が読み取れます。高順位の個体が湯の中央に、低順位の個体が縁にとどまるといった傾向も見られます。つまり、群れの中での立場が生存に直結していることを示しているのです。
まとめ
ニホンザルは「厚い毛皮」「集団での体温保持」「温泉入浴」「多様な食性」「社会性」「柔軟な地域適応」「科学的裏付け」「進化の比較的特殊性」といった点から、雪山という過酷な環境でも力強く生き抜いています。これはまさに、自然選択と知恵の融合が生み出した“雪猿”の真の姿です。
参考文献
河合雅雄・山極壽一(2018)『ニホンザルの生態』講談社学術文庫。
辻大和・中川尚史 編(2017)『日本のサル──哺乳類学としてのニホンザル研究』東京大学出版会。
ゆうきえつこ・文/福田幸広・写真(2021)『たより、たよられ、生きてます。仲間と暮らすニホンザル(命のつながり2)』文一総合出版。